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weekly shot 2002.10.8 |
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言葉の通じない人と会話を続ける事って結構たいへんなもんです。この絵、現在ぼくの友人櫻井謙一郎氏と合同展を開催している、パリ在住エジプト人のマムドゥ・アノワー氏の作品。何度か話す機会があった。彼はアラブ語フランス語の他に英語が話せる、でも私はフランス語はもとより、英語もままならないいわゆる一般日本人。元もとお互いの外国語である英語でのコミュニケーション、すんなりといくわけが無いもの。ましてや話しのテーマがヒューマンマインドだったりして。彼はできるだけ易しい単語を選び単純なフレーズで話してくれる。とはいえ完全に理解できるわけなく、発せられるフレーズ、聞いてて理解できる単語を総合して、イマジネーションを働かせて理解し、それに対して知ってる単語を並べて答える。会話が紡がれる時は次々に話題が降ってくる。こちらが理解できないときはさらに易しいフレーズで話しかける。それで理解できるときは良いけど、理解できなかったりこちらの回答がとんちんかんだったりすると、繰り返し繰り返し…。しかしそれが幸いだったのかな。通じないので、何とか理解しようとしたり、何とかお互いの気持ちを伝えようとする。自分の思いが相手に一番伝わり易い知ってる単語を探したり、知ってる単語を聞き逃さないようにする事は、けっこう集中力が必要。丸一日会話を続けるのってかなり疲れるもんです。でも理解しあおうという意識がお互いのコミュニケーションになり、結果的に理解しあえるんですね。言葉や文字ではなく意識のたまものです。
住宅の設計も同じ事。施主は自分なりのイメージを抱いていても、図面やスケッチでこちらにイメージを伝えることができる訳ではなく、自分の知ってるツール、たとえば雑誌の切り抜きや写真やチラシで自分のイメージを伝えようとする。もちろんそれ等は、他人のイメージで作り出されたものであって、決して自分のイメージそのものではないはず。それ等から、想像し理解し自分の意識を加え、自分の表現方法でイメージを共有していく。これも同じくお互い疲れるもんです。でも疲れたっていいと思う、理解しあえてお互いの理想に近づくのだから。結果的にその方が良いものにつながります。頭の中を見ることができない間柄なのですから、お互い意識が必要なんですよね。(いと) |
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